梅原 陽介

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Gender Male
Location Japan
Introduction 【梅原 陽介 略歴】 姫路市在住 モットー:「良馬不奔」「ぴんぴんころり」  1944年 京都府綾部市生まれ  1967年 大塚商会入社  1968年 故前尾繁三郎師に師事  1970年 北陽化工斯業創業  1972年 鮭の子文庫開設  1990年 ナックル株式会社設立  1997年 綾部商工会議所専務理事就任  2007年 京丹波町参与就任  2008年P&C創造研究所開設 【自己紹介】 敗戦の兆しありと巷間囁かれ始めた昭和十九年二月、何鹿(いかるが)郡綾部町で誕生しました。  この街は京都府北中部に在し、グンゼ(郡是製糸)の発祥の地、大本教開眼の地、そして世界連邦平和宣言都市提言第一号、水源の里、アンネのバラなどで少しばかり、ほんの少しばかりでありますが知り人ぞ知る街であります。  北隣には岸壁の母と軍港、東郷平八郎と肉じゃがで名を馳せる舞鶴、西隣には福知山、その昔明智光秀の居城のありし処、更には今をときめく?自民党総裁谷垣禎一氏の地元であります。  皆さん、もうお気付きの方もあろうかと思いますが、近隣、太子町の斑鳩寺や奈良県の斑鳩町や法隆寺(別称斑鳩寺)の斑鳩と読みは一緒でありますが字が違うのです。この字は今や死語となり広辞苑などの辞書からも末梢されています。生誕地のことはともかくとして、私のその後を紹介致します。  小学校、中学校は、綾部で送りました。  高校になって隣町の高校に進学、当時、進学志望は普通高校に就職志望は商業高校を選択したのであります。それでも進学率は五〇パーセントくらい、それが大学になるとさらに半分くらいでした。ましてや就職希望の商業高校ではクラス五〇人で二,三人、そんな環境での志望変更でした。動機は普通高校へいった親友の言葉でありました。彼は進学志望でありましたが家庭の事情で父親に反対されていました。そんな彼は公園や近所の山の林間で受験勉強をしていたのです。元々成績優秀であった彼の目標は教育大を出て学校の教師になることでありました。  そんな彼が云うのです。 「陽ちゃん進学しな、これからは学んで自分を磨かんと・・・・・。陽ちゃんは行けるんやから。」  そんな彼の行動や言葉を聞いて遅ればせながら進学に向かってシフトを敷き、とは言っても簿記、珠算、商業などを中心に就学し、古文、数三、物理、などなど未就学での変更、どうしてどうしてこれは大変でありました。そのまま予備校へ、翌年、一浪しての入学でありました。  昭和四十二年事務機商社に入社、翌年代議士秘書、翌々年、スポーツ衣料企画製造企業を斯業創業、以来三十年余、その後地域商工会議所専務理事、地方行政参与となり、リタイヤ後は姫路に転宅し、S&P創造研究所を開設し、閑期は家庭菜園に専念するをライフワークとしています。